めど ― 2008年07月09日 13時29分
今回もあまりうまくかけませんが・・・・。
NAETについて
静岡でのNAET治療,長男君の場合,
私達両親の判断で
あえなく挫折してしまいました。
NAETは,根気のいる治療法なのです。
岐阜から静岡までの通院回数・費用
については前回 ここ を参考にしてください。
さて私達の住んでいる岐阜には
NAETの治療院はありませんでした。
比較的新しい治療で,
長男君がNAETの治療をはじめた頃は
先生でさえ模索しながら
の治療だったように思います。
今ならもっと効率よく
治療が進んでたかもしれないし,
静岡まで行かなくても,
腕のいい先生は探せたかもしれません。
ただ,挫折したのは,
私の先生とのコミュニケートの不足もあるようです。
私(母)は先生に,
いつまでかかるのか?
あと何回くらい通えばいいのか?
どれだけ金額がかかるのか?
卵なら何歳までに食べられるようになるのか?
など具体的なめどとなる質問を全然しませんでした。
というか,
治療にとって本当はとても大切なことである(めど)
ということが大切だということに
私自身が気づいていなかったのです。
アレルギーをもつ子の親なのにおかしいですよね。
静岡に行っただけで,
もうすごい効果があるように
感じられてしまっていたのかもしれません。
それに,周りには同じアレルギーを持った
患者さんたちが多数この治療院に通って,
治療をしていたこともあり,こちらに通えば
アレルギーは克服できるんだという
気持ちが有ったのかもしれません。
いずれにしろあまり当時の
精神状態を思い出すことができません。
ただ,
先生はいつもとても多忙で,
たくさんの患者さんがいたし,
スタッフの方も一生懸命ですが,
私にはどことなくピリピリした雰囲気が感じられ,
我が家におけるアレルギーのつらさ,
長男君の症状の詳細を
どうしてもうまく伝えられていませんでした。
この辺が挫折の原因かと思います。
超がつくほど寂しがり屋のパパ様は
いつも家で待っているばかりでつらかっただろうし,
長男君は一向に食事制限もやめられないし,
最後の最後で議論をした結果,
パパ様は私に
めどをつけろと一喝したのでした。
とても個人的見解なのでお許しください。
この後はNAETから
別の治療法を見つけ出した先生に出会い,
今にいたるわけですが
少しづつ振り返っていけたらと思います。
まま
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代替医療(その2) まま ― 2008年06月24日 20時31分
アレルギーのブログのはずが
アレルギーの話題を避けている。
あの頃の事は,正直書くのが難しい。
思い出したくない。
そんな気持ちがあるからかな。
アレルギー治療真っ只中の頃,
長男君の食物アレルギーを治すため,
私達夫婦は 今から思えば
尋常な精神状態ではなかったと思う。
今でこそ,呑気に構えていられるけれど,
二人とも内面は極限まで ナーバスになっていて,
外面はなんでもないふうにしていたなあ。
食物アレルギーはブログ村でもわかるように
本当にたくさんのご家族が抱えていて
みんな一生懸命に取り組んでいる。
本当に今でも励まされるし,
あの頃,こういうブログに目を向けていればよかったと思う。
でも,できなかった。 目をそらしつづけて。
もっともっとつらい境遇(病気,貧困,紛争,天災)
の立場の方々に比べたら
飽食の時代の日本でのアレルギーくらい,と思うし,
他のことでは長男君はとてもとても幸せに暮らしているから
全然たいしたことないと思う。
そう思うようにして過ごしていたのです。
さて以前日記にも出ていたNAET治療。これについて
今回は意を決して書きたいと思います。
はい,
長男君のアレルギー発覚後,3歳半から
NAET治療してました。
とてもハードな期間でした。
必ず毎週,金曜日か週末に日帰りで
岐阜から静岡に治療に行ってました。
私も仕事を休み,長男君も保育園を休み,
長女だけを保育園にあずけて。
それも,新幹線で行ってました。
朝早く車で岐阜の中心部まで行き(50分)。
パーキングに車をとめて電車で名古屋駅まで(40分)
名古屋駅から静岡まで新幹線で(120分)。
静岡駅から治療院まで(30分)。
合計4 時間以上(待ち時間など)
それから治療を済ませ
治療は一日に1~2回(治療費も2回分,保険なし)
静岡から岐阜まで帰宅。
帰宅時間は21時から22時くらいだったような。
帰宅後にはフラフラで,治療後の片つけ。
パパ様も,夕食の準備を率先して行ってくれたし,
長女の面倒を見てもらいました。
治療からの帰宅後の家庭の雰囲気は微妙な感じでした。
成果が出れば大手を振って報告できるのですが,
結果はすぐに出ないものだと言われていたし。
毎回,何らかの食事の除去があって,
食べられる品目が減っていました。
この治療を3年間(もうちょっとかなあ) 続けました。
夏休みなどの長期休暇には集中的に通っていました。
費用については莫大なものです。
エルグランド(いいほうのやつ)一台買えるくらいは・・・・・・
この結果,
どうなったでしょう?
治療の本来の意味が
見えなくなってしまったのです。
我が家は共働きですが,
そのころは私の勤務も些細なものだったし
田舎の質素なサラリーマン家庭です。
治療費や時間などの,
膨大に磨り減っていく部分だけが目立って
生活のすべてにその磨り減った部分が染み込んで
そんな中で私たち夫婦は生活していたのです。
すべては長男君が食べられるようになればいいと思って。
NAETは本当にすばらしい治療法ですが
長男君には何せ時間がかかりすぎたのです。
NAET治療中,
食べられるようになったものはひとつもありません。
食制限は無限につづいていました。
ある日,ついにパパ様が切れました。
切れたというか,これ以上この生活を続けていたらという
思いがあったのだと思います。
ちょうど,保育園を卒園するころ。
(頼むから,やめてくれ)
(おれが,ピーナッツ以外のものなら試して
食べられるようにする,こんな生活は散々だ)
仲のよい夫婦?なのですが激しい争いがあり,
治療は中断してしまいました。
要するに,
体の中では何が変わってるのかは何にもわからないし,
3年以上治療しても,一口の卵も食べられなかったのです。
厳密には成果がそこそこ出たということで,
卵を治療院で食べさせてもらったのですが(やはり,即効で嘔吐してました)
結果,静岡でのNAET治療を終了しました。
冒頭の写真はその当時
長男が卒園の文集に書いた絵です。
NAETの治療のために乗っていた新幹線がかかれています。
それもそうですよ。3年間の間,
治療に200回通ったとして,
岐阜から静岡間を400回ですか。
やはりすごい回数だ!
まま・ぱぱ
つづく。
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